加川良の活動経歴。死因と生前の評判は?「教訓Ⅰ」「教訓Ⅱ」の誕生秘話は?
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今回は、フォークシンガーの加川良さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
プロフィール
- 氏名 加川良
- 生年月日 1947年11月21日
- 出身地 滋賀県
- カテゴリー フォークシンガー
活動経歴。死因と生前の評判は?「教訓Ⅰ」「教訓Ⅱ」の誕生秘話は?
まず、加川良という名前ですがこれは芸名でその芸名の付け方が面白いので書いていきます。加川良の加は加山雄三から取り、川は長谷川一夫から取り、良は池辺良から取って、加川良という名前が誕生したと言います。
画像検索を掛けて貰えば解りますが、加川良さん自体も相当なイケメンですから、色々と思案した結果この芸名に落ち着いたのかもしれません。関西フォークの発祥の場所とも言われるディラン、ザ・ディランⅡのメンバーでもあった大塚まさじさんがマスターを勤めていた喫茶店で加川良さんもここへ通っていたようです。
当時からイケメンであったことは周知の事実で、本名である小斉善弘として歌っていたのです。URCレコードの関連会社アート音楽出版の制作社員であったため、本名ではなく芸名を付けようという話に発展しフォークシンガー加川良が誕生しました。
元々、フォークソングに骨の髄まで浸かっていたわけではなく、ロック好きでありアニマルズなどをカバーしていたようです。しかし、日本国内でフォークシーンが盛り上がりにはさほど関心が無かったようです。
URCレコードに就職したことでフォークソングと関わりを持つようになって行きます。
それは当時の上司であった岩井宏さんにフォークソングの手ほどきを受けて、加川良さんを取り巻く仲間たちからも触発され、いつしか歌い始めていきます。
中津川フォークジャンボリー(今で言うとフェスみたいなもの)でステージデビューを果たし、ルックスから一気に人気を得る。同時期に活動していた吉田拓郎と並ぶ人気者となって行きました。
しかし、吉田拓郎は次々とヒット曲を量産と共に作家としてフォークジャンル以外のアーティストにも楽曲を提供し、人気を不動なものとなっていきました。かたや加川良さんは人気とは一線を画し、独自の音楽性を求め活動を継続していきました。
この様に精力的な音楽活動をしていた加川良さんですが、今年4月急性骨髄性白血病のため他界されました。死去の直前はじっと死の瞬間を待っていたわけではなく、アルバムを『みらい』をリリースする等、前向きにひたむきにミュージシャンとして生きていきました。2016年にはシカゴでライブを開催し、12月4日に行った福岡のライブが最後のステージとなってしまいました。
生前の評判はこれとしてありませんでした。やはり歌で加川良というフォークシンガーのイメージが勝手に作られてしまった事は否定出来ず、加川良さん本人の事はあまり取上げられなかったのかもしれませんね。生前どんな感じだったのかご存知の方がいらっしゃったら教えて欲しいなと思います。
続いては『教訓Ⅰ』と『教訓Ⅱ』について書いていきます。
『教訓Ⅰ』は、中津川フォークジャンボリーで歌って、加川良ここにありを示した大切な楽曲の一つです。作詞作曲は加川良さん自身、直球反戦フォークでは無く、少し皮肉った形で国家権力に向けて歌った歌であると考えます。
そのため、加川良さん自身もずっとこの歌を歌い続けることが出来たと語っています。続いて『教訓Ⅱ』の作詞はなぎら健壱、作曲は加川良、歌ったのはなぎら健壱さんです。今度は一転して酒を飲む歌に変わってしまいました。
歌詞の内容は飲み過ぎないようにしないとね、そんな感じの歌です。『教訓Ⅰ』は国家権力に関する歌ですが、『教訓Ⅱ』は飲み過ぎているヨッパライの歌です。特にⅡに関しては加川良さんはどう思っているか聴いてみたいものです。
まとめ
今年亡くなってしまいましたが、歌だけは残っていくので今後も歌い継がれていきますし、まだ中津川フォークジャンボリーで同時に生きていたなぎら健壱さん等が生きているので加川良さんを事ある毎に語ってくれると思います。