野中小百合の現在の活動。結婚してる?ライブは?「密航」「蝶のすむ部屋」の誕生秘話は?
1970年代から1980年代にかけて、芸能界で活躍した野中小百合さんを色々な角度から掘り下げていきます。
プロフィール
- 芸名 複数あり(本名 野中泰子)
- 生年月日 1959年3月27日
- 出身地 福岡県 北九州市
- 所属事務所 渡辺プロダクション
- カテゴリー 演歌歌手・アイドル歌手
- 活動開始 1975年
現在の活動。結婚してる?ライブは?「密航」「蝶のすむ部屋」の誕生秘話は?
現在の年齢は、59才から60才の年ですがネット検索をしてもヒットしないという事は恐らく芸能界引退しています。ですので、地元の北九州などに帰郷している可能性はあるかもしれませんが芸能界にいる可能性はとても低いです。
結婚しているか否かも解りませんでした。まあある程度活動した人や結婚して引退した人などはそのような記事がインターネット上に存在していますが、それもありませんそのため解りませんでした。
ライブについても芸能活動しているかどうか解らないので、行われる予定も発表されていません。ここからは野中小百合さんの楽曲「密航」「蝶のすむ部屋」で調べてみましたが該当の楽曲はありませんでした。
ここからは、野中小百合さんがどの様な芸能活動をしてきたのかについて書いていきます。デビューは、1975年11月25日『恋の誕生日』でデビューしました。こちらはアイドルど真ん中の楽曲に仕上がっています。『恋をしたそのときが2度目の誕生日』の歌詞がとても印象的です。
セカンドシングルは、1976年4月に、『ふたりの竹とんぼ』作詞:麻生香太郎 作曲:平尾昌晃で作られ、 「笑って笑って60分」内のドラマ「新・哀愁学園」の挿入歌として起用されました。そのため当時番組を見ていた人は記憶に残っているという人もいるかもしれません。
デビューソングは、アイドル路線まっただ中の楽曲でセカンドシングルは演歌色が強くなると言うかなりの迷いがあったのかと思わせるところです。翌年1977年に『火遊び志願』をリリースしました。
こちらも歌唱動画がありませんので、どの様な楽曲だったか判別することが出来ませんでした。その後翌年1978年に『娘たちの祭り』をリリースしますが、世間には響かなかったようです。
その後、活動休止し芸名を糸川螢子に変えて再デビューを果たしました。1980年6月21日に『ほたる音頭』をリリースし、TBSラジオで放送されていた『いすゞ歌うヘッドライト~コックピットのあなたへ~』のパーソナリティーを1年間務めていました。
その後シングル3枚をリリースしましたが、どれも世間には響かず芸能活動は苦労をしたようです。また、野中蛍子に改名したという話もあり、期待された割にはブレイクしなかったと言う事のようです。
1981年以降の芸能活動については、履歴がありませんので恐らく芸能界をフェイドアウトせざる終えない状況になったと思われます。
まとめ
野中小百合さんを今回掘り下げてきましたが、芸能界は本当に成功しないと苦労しかしない場所だと言う事がよく解りますね。まあ、自分が芸能の仕事をしたくてデビューを夢見るわけですが、色々な要因で売れなくなる事があります。
今回調べただけでも芸名を3回変えており、苦労の跡が見えます。またアイドル路線の楽曲からスタートを切り、演歌路線へ切り替えその後はまることが出来なかったので売れなかったと言う事になります。
しかしながら、演歌界は改名をガンガンしても売れていく人もいますがやはりその人が持っている運みたいな物がかなり影響しますね。後はデビューした時代に強力なライバルなどがいてしまうと、なかなか目立つことが出来ないのです。
因みにデビューした1975年を調べてみると岩崎宏美や岡田奈々がいますが、岡田奈々は清純派で売れていましたが、岩崎宏美は後にヒット曲を出してブレイクしました。そんなに強力なライバルがいたわけでも無さそうです。
売れない理由を探るのはとても難しいと感じてしまいますね。