フォークソングカフェ

フォークソングや歌謡曲の名曲やアーティストを語るブログ

男性歌手

さとう宗幸のプロフィール。家族や性格は?「青葉城恋唄」の誕生秘話は?

2017/08/04


スポンサーリンク

出典:〔amazon〕プレミアム・ベスト さとう宗幸

近年では、東京で活動すると言うよりも、宮城県でタレントとして活動しており悠々自適な生活をしているようです。今回は、フォークシンガーのさとう宗幸さんを色々な角度から掘り下げて行きます。

プロフィール

  • 氏名 さとう宗幸(本名 佐藤宗幸)
  • 生年月日 1949年1月25日
  • 血液型 B型
  • 出身地 宮城県 古川市
  • カテゴリー フォーク歌手
  • 所属事務所 さとう宗幸音楽事務所

プロフィール。家族や性格は?「青葉城恋唄」の誕生秘話は?

さとう宗幸=宮城県という印象を抱きがちですが、生まれは岐阜県で、2歳の時に宮城に転居し、青年期から音楽に親しむ生活を送ってきました。中学生の時はブラスバンド部に入部しトロンボーンを担当、高校の時はマンドリンクラブに入っていました。

その後、東北学院大学経済学部に在籍し、釣りや少林寺拳法、等を行いそれと同時に歌手としての活動を開始します。それは歌声喫茶での歌手活動でした。歌声喫茶とはお客と店の人が歌集を見ながら歌を歌う集いの場所、当時はカラオケがありませんから、歌いたい人はその場所に集い、歌いストレスを発散する場所です。

歌っていた物はロシア民謡などで、当時はトレンドで通う人も少なくありません。さとう宗幸さんの話に戻しますと、大学を卒業し、一度一般企業に就職しました。一年ほどで地元仙台に戻り歌声喫茶の仲間と再会し、歌手活動を開始しアルバムを自主制作しました。

翌年、地元のNHKのFM局でディスクジョッキーを始め、人気を博しその翌年青葉城恋歌でメジャーデビューを果たしました。ではここから青葉城恋歌の誕生秘話を書いていきます。

誕生のキーワードとして外せないのがラジオ、当時さとう宗幸さんが担当していたラジオ番組にリスナーから寄せられた歌詞にさとう宗幸さんが曲を付けるコーナーがあり、そのコーナーに送られてきた歌詞にメロディーを付けたのがきっかけでした。


スポンサーリンク

当時の仙台の情景と心情が上手く描かれており、インスピレーションが働き5分ほどでこの曲は完成したようです。さとう宗幸さん本人も語っていますが、売れる曲というのは誰かに作らされている如くあっという間に完成してしまうようです。

この曲がラジオから流れた瞬間リスナーからの反響が大きく、キングレコードのディレクターだった赤間剛勝さんが自身も仙台出身と言うこともあってか、この曲を気に入りデビューが決まりました。

また、この曲はダークダックスとの競作という事になり、当時は3万枚売れれば良いかそんな事を考えていた位だったようです。結果はミリオンセラーとなり当時起きた宮城県沖地震の復興ソングとしても歌われたようです。

レコード大賞新人賞、紅白歌合戦出場など歌手として欲しい物を全て手に入れたその様な人生順風満帆な歌手生活へと変わりました。その後金八先生の後シリーズ仙八先生で俳優デビューを果たし、一気に有名人となりました。

やはりミュージシャンや芸術家と呼ばれる人は、生まれる前からなる事が決まっているのかなそんな事を感じてしまいますよね。そして歌を通して人に何かを伝える役割を担っているから生きているのかもしれません。

最後にさとう宗幸さんの家族や性格について書いて行きます。家族については子供がいるようで孫もいるという世間的におじいちゃんと呼ばれてもいい年頃でもあり状態です。

インターネット上では、性格が悪いのではないかと言われています。画面に出ている顔と本当のさとう宗幸さんは違うという話でした。しかし、こういった類の話は実際に本人に接してみないとわかりませんので、どちらかに決めつけてしまうのは怖いですよね。

まとめ

青葉城恋歌はさとう宗幸さん一人で作った物では無くリスナーやその楽曲を売り出そうとした人たちに支えられて、発売までこぎ着けたのだという事が解りましたね。そしてさとう宗幸さんはスターになりました。最近では仙台の地元ローカル番組に出演し、帯で司会をしているようです。

今後も仙台を中心に活動していくことでしょう。

〔amazon〕さとう宗幸のCDはこちら。

スポンサーリンク

関連記事


-男性歌手