暁テル子の死因と歌手としての評価。「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」の誕生秘話は?
昭和の初期に活躍した暁テル子さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
プロフィール
- 芸名 暁テル子(本名 関根 ひさ)
- 生年月日 1921年1月21日
- 出身地 東京
- カテゴリー 歌手 女優
- 活動期間 1933年 ~ 1958年
- 所属レコード会社 日本ビクター
死因と歌手としての評価。「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」の誕生秘話は?
死因に関しては1958年、胸を患い事実上の引退となりました。1962年7月20日、心臓麻痺により中野区江古田4丁目の自宅で41歳の若さで死去しました。
歌手としての評価は、唯一無二のスキルを持っていたと考えても良いと思います。少女時代から活躍しSSK松竹少女歌劇団の出身者です。同時代に生きた歌手笠置シズ子と比較されることが多く本人も相当意識をしていました。
また、ビクターレコードの専属歌手となり、活動を本格化させました。テレビなどでも活躍をして当時はかなり人気があったことが推察できます。冒頭にも書きましたが病気が克服できていれば沢山の聴衆を満足させる事が出来たかと考えると残念でなりません。
ここからは暁テル子さんの楽曲「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」について書いて行きます。暁テル子さんは前年1950年に『リオのポポ売り』、『チロルのミルク売り』を発売。
『ミネソタの玉子売り』は○○の売り3部作の最終作となっています。1951年に発売され日本の楽曲では年間2位の売上を記録したと言われていますが、この当時オリコンのような売上ランキングを集計してくれる会社は存在していないためこの当時の売上発表は不正確な物が多いです。
また、実際にアメリカ・ミネソタに玉子売りという職業はないのでどういうところからこう言った発想となりこの曲が誕生したのは資料もないので解りません。また、タイトルは語呂が良かったから付いたという可能性もあります。
当時は日本は連合国軍の占領下でサンフランシスコ平和条約締結に向けて日米融和ムードが高まっていたと言う時代背景からアメリカが選ばれジャズSingerと言えばミネソタと言う事から決まったとも言われています。
アメリカの食文化に卵の存在が不可欠で、その代表格として選ばれたという説もあります。いろいろと説は存在しますが、楽曲自体はジャズテイストがふんだんに盛り込まれたノリの良い楽曲に仕上がっておりアニメ『ちびまる子ちゃん』の中でもまる子が歌っている事でも知られています。
続いては、「東京シューシャインボーイ」最近は歌手としての知名度が高く世界的となっており、映画AKIRAでも使用され世界的に知られています。
まとめ
今回は暁テル子さんを掘り下げて行きましたが、あまりに古く詳細情報は少なかったのですが、「ミネソタの卵売り」が最大のヒット曲と言えます。時代を超えて試聴されている楽曲であり今の世代の人でも聞いたことが或る人もいるかもしれません。
しかしながら芸能人生はとても短いと感じましたが、結婚しましたので人生としては短期間に色々な事を経験したのでは無いかと思います。しかしながら当時の医療技術が乏しく胸つまり肺を患うと当時抗生物質もないためウイルスを殺すことも出来ず対処出来る治療も無かったと思います。
現代の医療なら抗生物質やステロイド治療をすれば治る物だと思いますが、その当時はそのような物も無いので胸を患うと厳しい環境で治療を続けないとならない状況が続いたと思います。
最終的な死因は心臓麻痺ですので、胸を患ったこととの因果関係が明らかになりません。いずれにしても41歳という若さでこの世を飛び立ちました。才能のある芸能人ほど速くこの世を飛び立ってしまうそんな印象を抱いてしまいます。
今後については、昭和時代から残る歌を誰かが歌い継いで行く事が良いと思います。知られていないだけで意外な名曲が沢山残っています。今後は昭和歌謡の掘り起こしそして世の中に出し脚光を当てると言うのも意義のある活動と言えます。