宮城まり子の死因と歌手としての評価。「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「納豆うりの唄」の誕生秘話は?
女優、監督、福祉事業家として活動した宮城まり子さんを色々な角度から掘り下げていきます。
プロフィール
- 芸名 宮城まり子(本名 本目 眞理子 )
- 生年月日 1927年3月21日
- 出身地 東京都 大田区
- カテゴリー 女優、歌手、映画監督、福祉事業家
- 活動期間 1944年~2020年
死因と歌手としての評価。「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「納豆うりの唄」の誕生秘話は?
死因は、悪性リンパ腫で2020年3月21日都内の病院で死去しました。93歳で恵まれない境遇にいる人達を救う活動には目を見張るものがあり、売れている芸能人で福祉施設を立ち上げた人はおそらく宮城まり子さんが初めてです。
海外では、ハリウッドスターが慈善活動や寄付を行うことが当たり前とされており、逆に稼いでいるのになぜチャリティーなどを行わないのかと批判を受けることもあるほどで慈善事業やボランティア活動は当たり前の活動とされています。
日本の場合、チャリティー活動や慈善事業に勤しんでいても、公表しない人が殆どで、例えしたとしてもワイドショーが取材した際に少しだけ漏れ聞こえてくる程度です。国の風土があって芸能人がそのようなことに一生懸命やるとその行動自体を揶揄する人たちもいるため、芸能人があまり慈善活動を公表はしません。
ハリウッドほどではなくてもいいから、オープンにこういった活動をしても公表できる土壌が出来上がるといいそう感じます。歌手としての評価はのちに紹介しますが、ヒット曲もたくさんあり歌手としては当初は苦労しましたが概ね恵まれた環境で歌うことができたと考えてよさそうです。
紅白歌合戦にも8回出場し、聴衆からも歌手として認められた存在でした。ここからは、宮城まり子さんの楽曲「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「納豆うりの唄」について書いていきます。
「毒消しゃいらんかね」作詞・作曲三木鶏郎
薬を売る女性の歌、角海浜という村があり当時は薬を売り歩く女性が存在しており最盛期は3000人超える人が生業としていましたが、経済の発達などにより商売自体がなくなってしまいました。
富山の薬に代表されるようにセールスマンが営業し、ネットで購入可能なため現在ではあまり考えられない商いを歌にしました。
「ガード下の靴みがき」
懸命に生きるガード下の靴磨きのことを歌にした物です。宮城まり子さんがけなげに明るく歌唱したため聞く人の心に刺さり大ヒットソングとなりました。こちらも現在の靴磨きとは存在意義が違います。
戦後の混乱によって生きるために致し方なく靴磨きをやっているということになるので現代の靴磨きをしている人の理由とは違います。また、靴も革靴が少なくなっていますので靴磨きなどはあまりすることはなくなりつつあります。
「納豆うりの唄」
納豆を売り歩く少年の歌でこれも戦後の混乱期の少年を歌にしたものです。現代は子供を働かせることは禁止されているのでこのようなことはあり得ませんが、戦後は生きるために必死になっている時代なのである意味では何でもありという時代です。
調べてみると戦後の時代背景を歌にしたものが多く、時代とフィットした歌手といえます。今後も時代とともに生きる歌手というのは存在しますし出てくるでしょう。後になって振り返ったときにこのような歌があったと思う時も来ると思います。
まとめ
今回は宮城まり子さんを掘り下げてきましたが、個人的な印象では徹子の部屋によく出演する人というイメージでした。そこで、児童福祉施設の運営をしていることを知りました。しかし、芸能人としてこんなに売れているということはこの記事を書くまで知りませんでした。
また、恋愛面では作家の吉行淳之助さんと内縁関係にあり長い時間を一緒に過ごしていたということも公然の事実だったようです。しかしながら、世間を知らないからと言って女優業を休業しルポライターになっていた時期があったとは驚きです。
また、養護施設を運営するきっかけは舞台で脳性麻痺の少女を演じたからだそうです。そしていろいろな児童養護施設を見学し、ねむの木学園を設立しました。