山平和彦の現在。事故死したという噂は本当?「放送禁止歌」の誕生秘話は?
出典:〔amazon〕ライブ!山平和彦
今回はフォークシンガーの、山平和彦さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
プロフィール
- 氏名 山平和彦
- 生年月日 1952年1月23日
- 出身地 秋田県 潟上市
- カテゴリー フォークシンガー
現在。事故死したという噂は本当?「放送禁止歌」の誕生秘話は?
2004年10月12日夜、東京都内でひき逃げされて翌日死去、無念の死だったと思われます。犯人は検挙され事件は解決しましたが、山平和彦さんはもう二度と帰っては来ません。
それも犯人は直ぐに検挙されたわけではなく、翌年の1月27日に検挙されたようですから山平和彦さんを助けようとしたわけではなく、放置して逃げていたという事に憤りを感じます。
さてここからは、山平和彦さんがどの様な音楽活動をしてきたのか?について触れて行きます。ソロシンガーとしてデビューしたわけではなく、バンド『山平和彦とザ・シャーマン』で1970年代にデビューしました。
中津川フォークジャンボリーに参加し、アルバム『放送禁止歌』をリリースしました。その後アルバム3枚をリリース、バックバンドだったマイペースをプロデュースして『東京』と言う楽曲が大ヒットしました。
フォークブームが終演を迎えると、ロックへと傾倒し始めJAPというロックバンドを結成し、活動をしていた時期もあります。やっていた音楽はプログレロック、前衛的ロックとも言われるため、今まで聴いたことのない音楽を奏でるような作品やコンセプトを決めてリリースする作品などを現在では呼ぶこともあります。
1ジャンルに拘らず、今できる音楽を形にしてきたという事が凄いことだと思います。確かにフォークギターだけでは表現できないアーティストとして表現したい部分でロックを活用するアーティストもいます。
山平和彦さんも表現したい音楽の1つとして、ロックを選んだ可能性は否定出来ません。
続いては、『放送禁止歌』について書いていきます。1972年2月にリリース、作詞は白井道夫さん。
作曲は山平和彦さんでした。歌詞の中身は概ね4文字熟語で構成されており、一見すると漢文を歌詞に引用したのか?と思いがちです。放送禁止になった理由については後にインタビューで答えています。(以下URL: http://blog.goo.ne.jp/aknk-2/e/a7ff6680245c1fc41783c368d81b22b0引用)
しかし彼自身はこの曲について「放送禁止」という措置が
とられることを全く予想していなかった。歌詞に
「放送禁止 先刻承知」という部分があるにもかかわらずだ。
「……だってこの曲は、本当にみんなに喜ばれると
思ってましたからね」
「みんなって誰ですか?」
「すべての人にです。もっと言えば放送局の人にもね。
実際に放送禁止になるなんて、全く予想していませんでしたね」
(『放送禁止歌』森達也著/解放出版社)
そして、彼はこの曲が放送禁止になった経緯について
こう語る。
「確かね、タイトルがふざけているとか、
そんな理由だったと思いますよ」
「タイトルがですか?」
「そう、民放連の、確かそういう禁止歌を決める部署があるんでしょ。
そこの人たちが自分たちを舐めていると怒ったという説明でしたね。
歌詞が問題になったとは聞いていません」
(前掲書)
彼の語る事実が真実であるならば(もちろん当事者の弁なので
限りなく真実に近いとは言えるだろう)、これほどお粗末な
理由はない。理屈は理解できるものではあるが……。
さらに「問題のなかった」歌詞についても、発売前、
一番にある「職業軍人 時節到来」という一節が
レコード会社内部で問題になり、彼は
「山平和彦 時節到来」というように改変したという
事情があったとされる。
歌詞の内容が放送禁止になった訳では無く、なめられた態度を取られて民放連が激高し、放送禁止になった事が本当の理由で歌詞の内容は問題なかったようです。しかしこの後同タイトルのアルバムをリリースしますが、この曲と、他2曲も放送禁止措置を受け、楽曲差し替えを余儀なくされています。
まとめ
山平和彦さんは、色々と挑戦していったミュージシャンと言えますね。放送禁止歌と言うから、自分の譲れない主義主張を歌詞に込めたのかと考えましたが、そうではなくなんとなく民放連が気に入らないから放送禁止にされてしまったと言うのが事の顛末のようです。
今後今普通に聴いている歌が放送禁止歌になる可能性もあるということが、起こるという事がこれではっきりしましたね。