ディック・ミネの死因と歌手としての評価。芸名の由来や身長は?「人生の並木道」「私の青空」の誕生秘話は?
戦前、戦中、戦後とくぐり抜け、その後歌手としてタレントとして活動し国からも正当な評価を受けたディックミネさんを色々な角度から掘り下げて行きます。
プロフィール
- 芸名 ディック・ミネ (本名 三根徳一 )
- 生年月日 1908年10月5日
- 活動期間 1934年~1990年
- カテゴリー 歌手、俳優、タレント
死因と歌手としての評価。芸名の由来や身長は?「人生の並木道」「私の青空」の誕生秘話は?
死因については1991年6月10日、急性心不全のため他界されました。82歳で平成期の寿命から鑑みても大往生と言えるのでは無いかと考えています。勿論、ご本人は体が元気なうちは歌い続けたかったのでは無いかと思います。
幼少期から堅物な父親と洋楽や邦楽に感度の高い母親の間に育った影響と蓄音機が家にあったことから、洋楽を歌うセンスには長けていました。ミュージシャンとしてのキャリアのスタートはジャズドラマーで未経験でしたが堂々と叩いていました。
そんな頃歌手の淡谷のり子さんに才能を見いだされて、歌手としての道が開かれました。その頃古賀政男氏と出会い、歌手デビューを果しました。ディックミネさんの主戦場はアメリカの歌に歌詞を付けて歌う事でした。
訳詞のセンスがとても高く「ダイナ/黒い瞳」がリリースされ大ヒットしテイチクレコード創業以来の大ヒットと現在も言われています。その後ボーカルジャズにも挑戦し数々のヒット曲を残しました。
1940年頃、お国からカタカナ名を使用しないようにお触れが回りディックミネさんも対象となり、三根耕一と改名し活動させられその翌年日本では活動場所を奪われ上海で活動していました。
戦争終了後、ジャズミュージシャン、俳優、司会者として活動の幅を広げていきました。1979年に勲四等旭日小綬章を受賞する等、国からも正当な評価を受けています。プライベートでは4回も結婚し破天荒な一面もありました。
生涯稼いだ金額は一説に500億円とも言われていましたが、上記にも書いた離婚回数のため晩年、殆ど財産はなく生活はかなり厳しい状態では無かったかと推察されています。6回の紅白出場歴が有り、才能溢れる昭和の歌手の一人と考えて良いと思います。
芸名の由来については男性自身がとても大きいと言う事から来ています。大学在学中相撲部に在籍していましたが、褌を締める際にアメリカ人教師から男性自身が大きいと言われそこからでっかい見ねぇが色々変化を重ねてディックミネが誕生したと言われています。
因みに男性自身のサイズは、30㎝あったと言われており日本人男性の平均は、勃起時で9㎝から15㎝。それを考えると如何に大きかったかが解ると思います。令和になった芸能界でもこれ以上大きいという話は聞いたことはありません。
因みに避妊具が大きすぎて使えず破れてしまったため、性行為の際は使用したことがないとも本人が語っていました。令和の芸能界では男性自身が大きいのでは無いと言われているのは、アンガールズの田中だと芸人仲間から言われていますが、正式に何㎝かは解りません。
身長については、正式な数字はありませんでした。因みに今後明らかになる可能性がありますのでそれを待つようにしましょう。続いてはディックミネさんの楽曲「人生の並木道」「私の青空」について書いてきます。
「人生の並木道」作詞、佐藤惣之助、作曲、古賀政男、1937年にリリースされた楽曲でディックミネさんの代表曲の一つです。歌詞の内容は故郷を捨てた兄弟二人がいつかくる我が世の春を信じようという歌でした。
「私の青空」は、作詞、G.Whiting・W.Donaldson・訳詞:堀内敬三 作曲、G.Whiting・W.Donaldsonでディックミネさんが歌った楽曲ですが、原曲のタイトルは『My Blue Heaven』で、2019年に東京建物のCMソングとして早見あかり出演で原曲が使用されています。
これ以外にも日本語で歌った物が過去にもCMソングで使用されているので聞けばわかると言うレベルだと考えています。因みにディックミネさんも紅白歌合戦で2回歌唱しています。
元々ジャズの曲に歌詞をはめ込んだと思われ、イントロが1分近くもある事が特徴で一部では青空と表記されることもあります。
まとめ
良くも悪くも昭和の歌手は持っている逸話が凄いと言うのが正直な感想です。