川田正子の死因と歌手としての評価。「里の秋」「とんがり帽子」「みかんの花咲く丘」の誕生秘話は?
童謡歌手として時代を生きた川田正子さんを色々な角度から掘り下げて行きます。
プロフィール
- 氏名 川田正子
- 出身地 東京都 大田区 大森
- カテゴリー 童謡歌手
- 活動期間 1942年~2006年
- 所属レコード会社 日本コロムビア
死因と歌手としての評価。「里の秋」「とんがり帽子」「みかんの花咲く丘」の誕生秘話は?
2006年1月22日に前日の長崎県で開催された童謡コンサートが最期でした。その日の夜、お風呂で意識を失い、病院に搬送されました。しかし、そのまま息を引き取りました。童謡一筋で歌手人生を送り年齢は71歳でした。
歌手としての評価は幼少期から童謡歌手として活躍しており、戦時中から歌っており空襲がないときがあっても、川田正子さんの歌声が聞こえなかった日は無いと言う伝説を残しています。
また、変声期を迎えるさえに一時期引退することにはなりますが、終ると復帰し歌声を聴衆に届けました。また、挑戦としてカンツォーネや日本語歌などにも挑戦しています。その他、紅白歌合戦の前進番組に出場した経験もあります。記憶に刻まれた歌手の一人です。
獲得した賞は1991年に日本童謡協会の童謡賞特別賞・2002年に文化庁長官賞を獲得しています。国からも評価されている歌手と言われています。ここからは川田正子さんの楽曲「里の秋」「とんがり帽子」「みかんの花咲く丘」について書いて行きます。
「里の秋」作詞、斎藤信夫、作曲、海沼實のコンビで作られた楽曲で、一日一日を生きる事が大変な時代であり、戦後の引き揚げ者(戦争によって海外に抑留されていた人達)や食糧難、インフレなどが積み重なり閉塞感のある時代だったと思われます。
そのため「里の秋」は、そんなすさんだ人々の心をいやした1曲と考えられており、現代のヒーリングソング的な存在では無かったかと思います。現代でも、コロナによって人生をゆがめられてしまい路頭に迷う人も多いです。
戦時中よりは酷くはない物の、似ているところがあります。人によっては、音楽に癒やされているという人も少なくないかもしれません。「とんがり帽子」は、鐘の鳴る丘というラジオドラマの主題歌でした。
作詞、菊田一夫、作曲、古関裕而のコンビで製作されました。ドラマの内容は戦争から帰ってきた青年が、戦争孤児のために施設を建てようと奮闘する物語でした。しかし、ドラマの放送が始まると台詞に汚い言葉が多く教育上良くない等と論争が起こったこともありました。
当時の社会では戦争が終っても全てが復興に向かっていたわけではありません。戦争孤児が街中に沢山いて社会問題化しているという側面もありました。そのためこのドラマの内容が当時の社会情勢にフィットし世間に浸透したと考えられます。
また、上記にも書きましたが言葉論争は巻き起こったもののドラマの内容は世間の注目を惹いて放送は週二回から週五回に増やしたという異例のヒット作という顔も持っています。続いては「みかんの花咲く丘」作詞、加藤省吾、作曲、海沼實のコンビで制作されました。
当時12歳の人気童謡歌手だった川田正子さんが放送に出演する事が決まっていましたが、
作曲家海沼氏が作曲できておらず放送前日になっても楽曲が完成していない状態でそこへ当時雑誌編集長だった加藤省吾氏が川田正子さんの取材のために訪れました。
海沼氏から事情を説明されて歌詞を書くことになりました。イメージしたのはみかんでしたが、花の歌をこのまま書くと『リンゴの唄』の二番煎じでは無いかと、言われてしまう可能性もあり、実の方に着眼点を変えました。
30分で3番まで歌詞を書いて完成させたという逸話があります。レコードのバージョンは、川田正子、井口小夜子さんが吹き込んだ2枚が存在します。戦後最大のヒットした童謡と言われており現在でも作詞をした加藤氏の出身地静岡県に歌碑があります。
まとめ
今回は川田正子さんを掘り下げてきましたが、戦後の混乱期に登場してきた子供の歌手と言う事になります。空襲に襲われることを避けるために疎開という避難をするわけですがそれもせずに東京で歌い続けた話もあります。
それだけに時代を駆け抜けたと言う事が言えます。