岡林信康のプロフィール。 「山谷ブルース」「友よ」に込められた想いは?
2017/08/05
出典:〔amazon〕弾き語り フォーク作品集
芸能関係者でも、フォークの神様と行ってはばかることはない絶対的な存在である岡林信康さん今回はプロフィールを掘り下げることもありますが、楽曲への想いについても書いて行きます。
プロフィール
- 氏名 岡林信康
- 出身地 滋賀県 近江八幡市
- 血液型 ?
- カテゴリー フォーク歌手
プロフィール。代表曲「山谷ブルース」「友よ」に込められた想いは?
岡林信康さんは、大学の頃に高石ともやさんというフォークシンガーと出会いギターを覚え始めました。岡林信康さんが出逢った高石ともやさんも後に受験生ブルースという歌を制作してヒットします。
そんな出逢いの中で、色々な事に疑問を感じて社会主義運動に自身を投じてギターを片手に歌を歌い始めます。当初は関西にあるレコード会社URCで7枚のシングルをリリースしています。
URCレコードはメジャーレーベルのレコード会社ではなくて、アングラレコードクラブと言う組織としてスタートしました。現在で言うところのインディーズレーベルで、当時レコードを発売するためにはレコ倫の審査を通らないと発売できない仕組みとなっていました。
しかし、このURCレコードはそんな審査を通さず歌手の表現したままを発売してくれるレコード会社でした。また、一般には販売せず会員になった人に制作したレコードを配布するという仕組みを取って居ました。
その後、岡林信康さんはURCレコードを離れて、1968年にビクターレコードに移籍して問題の『山谷ブルース』が発売されました。この曲は、上野にある山谷という日雇い労働者を題材に取り上げて歌にしたものです。
日本は高度成長期で、何よりも人手が必要な時代であり日雇い労働者が労働力として重宝されたことは間違いありませんし、あの人たちが居なければ東京の建物は殆ど建たなかったといっても過言ではありません。
また、日雇い労働者が暮らす地域としては、大阪府の西成区にあるあいりん地区も有名ですが、岡林信康さんが歌の舞台にしたのは何故か上野の山谷でした。
歌の内容は、ある労働者の一日を歌にしたもで当時の日雇い労働者がどんな生活をしているかどんな思いを抱えて生きているかなどを歌にしたものです。この歌は社会背景をにも後押しされてヒットしました。
現在も山谷には日雇い労働者が泊まる安価な宿が沢山あります。しかし今は姿を変えて外国人観光客や、国内旅行者が宿泊する場所としても活用されている場所です。
売上げ枚数は推定で、1万4千枚という今の売上げと比べるととても少ないイメージがあるかもしれません。しかし当初デビューシングルであり、大健闘と言える数字かもしれません。
この様なヒットにより岡林信康さんはフォークの神様と呼ばれるようになり神格化されて行きます。
山谷ブルースは友よとA面B面の関係にある物です。山谷ブルースは個人的な推察ですが、岡林信康さんの視点から見た社会的考察を歌にしたものではないかと推察されます。友よについては万人にも解るメッセージソングで構成されているものだと感じました。
また、後に職業差別という観点から放送禁止ソングという扱いを受けている楽曲でもありました。本来はわいせつな言葉からそうでない言葉まで放送禁止なんて物は存在しません。
放送禁止を作り出してしまう原因は、放送局や各メディアの自主規制による物で本来はそういった物は無いと言っても過言では無いのです。
話は戻りますが、山谷ブルースは、不思議な力を持っている歌で後に色々なアーティストがカバーしてそれが原因となって誰もが知る伝説の歌になったと考えられます。勿論今はテレビやラジオで歌うことは何故かOKになっています。
まとめ
岡林信康さんも、表現方法を模索してロックへ動いて行ったこともありました。色々な感情を表現してきました。現在年齢も70代を迎え京都で農業をしながら暮らしています。当時岡林信康=フォークの神様のイメージに岡林信康さん自身が苦しんだのかもしれません。
そんな岡林さんの当時の歌声を聞いてみませんか?